巨匠・ゴッホの挫折、挫折、挫折、希望……の伝道ものがたり

独特のタッチと明るい色彩で、“情熱の画家”として名を馳せる、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。《ひまわり》や《星月夜》、《夜のカフェテラス》などが有名で、そのどれもがうねるような筆跡の中で、煌々と明るい光を放ちます。美術史に大々的に名を残すゴッホですが、その画家人生は傍目に見ても悲惨なものでした。


 「別れるなら死んでやる!」レベルの強迫的耳切事件

Vincent van Gogh《Self-Portrait with Bandaged Ear》1889

© The Courtauld Gallery, London


「あなたと別れるぐらいなら、今ここで死んでやる!」

 なんて言ったことがある人、かなりメンヘーラなお方ですね。私はこれほどの修羅場に遭遇したことはありませんが、今や巨匠と謳われるゴッホは“死んでやるぅ”と言う側の人でした(仮定のお話)。


 事件が起こったのは、南フランスのアルル地方。オランダ生まれのゴッホはフランス・パリでの画家生活を経て、遠い島国・日本へ強い憧れを見せます。そして、暖かな太陽を求めて、南フランスのアルル地方に赴くのです。


 ゴッホはそこで、芸術家が家族のように暮らせる共同体を作ろうと、ほかの画家仲間もアルルに誘います。しかし悲しいことに、どの画家も応じてはくれません。その中で唯一アルルに来てくれたのが、島の生活を描いたことで知られるゴーギャン。ゴーギャンの来訪をゴッホは大層喜びます。そして、一緒に絵を描いたりして過ごすものの、芸術に対する思想の違いで喧嘩勃発。たったの2ヶ月で、ゴーギャンからもう帰る! と別れを告げられたのを機に、ゴッホは自分の耳を自ら切断。切った耳を馴染みの娼婦に届けます。


 「いや、なんで? なんで耳を!? しかも他の人に渡すって……!!?」っと、こちらが真っ青になる奇天烈行動。専門家の間では、ゴーギャンの行動に腹を立てたから切ったとか、剃刀でゴーギャンを襲おうとして一緒に自分の耳を切ったとか、いろいろと憶測がなされていますが、どっちにしてもかなりサイコスティックな精神状態です。 


しかも悲しいことに、ゴーギャンがアルルに来たのは、生活費を獲得するためだったとのこと。ゴッホと同じく貧乏画家として生活が困窮していたゴーギャンは、仕送りするからアルルでゴッホと一緒に生活して欲しいという、弟・テオの頼みを聞き入れたに過ぎなかったのです。


 そんなテオの悲しい優しさをゴッホが知っていたかどうかは定かではありません。でも、ゴッホからしてみたら、家族のような画家の共同体を作るという夢を共有したと思っているゴーギャンとの決別は、自らの夢の終わりでもあったはず。 


職を転々とし、やっと見つけた画家という職業で見た未来の崩壊は、ゴッホにとって“絶望”以外の何者でもない。自分で耳を切り落とすなんてサイコスティックな状況には変わりありませんが、自分を拒絶する世界からのある種の逃避であったのかもしれません。



いざ、殉教せん!

 自己犠牲に満ち満ちあふれる、ゴッホの情熱的駄々っ子 

Vincent Van Gogh《Portrait de l'artiste》 1889

 ©photo musée d'Orsay / rmn


ゴッホといえば先に挙げた耳切事件が大層印象的な事件ですが、実は彼の奇行はこれだけではありませんでした。


画家を志す前の伝道活動中には、自分の衣服を貧しい人たちに分け与えて自分は裸同然で暮らし、その奇行のせいで伝道師免許を剥奪。

また、若い頃に片思いしていた女性が居留守を使った際には、「この火に手をかざしている間だけ、彼女に会わせて欲しい」と両親に過激な無茶を言ったりと、自己犠牲に満ちあふれる行動を取っています。 


ゴッホの自己犠牲的行動からは、自らが傷つくことを厭わない強い意志を感じられますが、一方で自分の体を自らの手で傷つけるという偽りの献身で、相手からの愛や許しを強制的に得ようとする身勝手さも感じ取れます。


さながらお目当てのお菓子を手に入れようと、服が汚れることも周りから白い目で見られることも構わずに、床に背をつけ、泣きながら母親に懇願する子どものよう。ゴッホの奇天烈行動の方が何倍もレベルが高い(何のレベルだよ)ですが、その高レベルの異常行動が原因で、耳切事件の後にゴッホは入院することになったのです。



大胆な筆致と漏れ出るファンタジー感

 闘病の中で生まれる生命信奉

フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》1888年


35歳の冬に耳切事件を起こしたゴッホは、その翌々年の夏、37歳の若さで拳銃死することになります。幻覚や幻聴などの精神病や発作と闘いながら、ゴッホは2年にも満たない時間の中で、《星月夜》や《糸杉》などの名作とともに数多くの作品を描き上げました。


自然を描写したとは思えないほど、強調された輪郭に、形さえ手に入れたかのような気体や光、そして、臨場感ある生命力を感じさせる「糸杉」というモチーフ。決して写実的とは言えないゴッホの代表作は、自然を実際に目にした者の感情=心象風景とも言える心の動きを閉じこめたよう。リアルからほど遠い作品だからこそ、他に類を見ない幻想的な雰囲気が醸し出されています。


 一方で、闘病中に好んで取り上げられたのが「花」や「木」など植物のモチーフ。《ひまわり》や《糸杉》など、禍々しいほどに大胆な植物とは対照的に、《花咲くアーモンド》や《薔薇》などの絵は、パステルカラーを思わせるやさしい色彩と花の可憐さでゴッホの作品イメージを覆します。 


Vincent van Gogh《Almond Blossom》1890


生命がもつ動的エネルギーと、花たちの静的美しさ。


もしこれら2つの特徴が1つの絵画に収められたなら……ゴッホは巨匠としての地位をさらに高めたかもしれません。 



自然を前に人生を描き続けた画家・ゴッホの「空想」 

Vincent van Gogh《Head of a Skeleton with a Burning Cigarette》1886


ゴッホといえば《ひまわり》や《糸杉》、《薔薇》など、植物や自然をテーマに描かれた作品がほとんどですが、中にはゴッホが空想して描いた作品もあります。 


《煙草を吸う骸骨》は、30代前半と画家人生の早い段階で描かれた作品。黒バックを背にした骸骨が火のついた煙草をくゆらせる様は、実にファンキー。“死”の代名詞でもある骸骨が煙草を吸う行為は、煙草を嗜好品として楽しむというよりも、人生を投げやりに捉えているかのような哀愁感さえ漂っています。「俺と一緒に人生吸い終わってみるかい?」なんて標語と一緒に禁煙撲滅のポスターにできそう(驚くほど標語がダサぃ……)。 



《煙草を吸う骸骨》以外にも、骸骨と猫が描かれたスケッチを書き残していたり、ゴーギャンに勧められて想像で描いた《エッテンの庭の思い出》や、ギュスタヴ・ドレの模写である《監獄の庭》など、自然ではないものも意外と描いています。 


それらの多くが筆致が繊細というか、ゴッホ独特の筆跡があまりなく、細かく描かれている作品が多いという印象です。モチーフが自然ではない分、自分が想像したものを忠実にキャンバスに書き出そうとしているかのよう。 


個人的には《ひまわり》や《薔薇》など、明確なモチーフを描いたものよりも、コラージュのような構図や、想像の幅が広がるような、より現実的ではないゴッホ作品の方が好きですが、ゴッホ自身は最後まで植物や人物など、自然を描き続けます。



情熱の画家は伝道師としてではなく、パイオニアとして殉教する 

Vincent Van Gogh《L'église d'Auvers-sur-Oise》

©photo musée d'Orsay / rmn


35歳で耳切事件を起こした後、ゴッホは幻覚や幻聴に悩まされて、入退院を繰り返します。そんな中、36歳の時に、サン=レミ病院に入院。絵描きが趣味でコレクターでもあったポール=フェルディナン・ガシェ医師のもと、精力的に作品を描き続けます。


そして7月27日。遂に事件が起こります。 拳銃で腹部を撃たれた状態でゴッホが発見され、それから2日経ったのち、37歳の若さでこの世を去りました。


 一般的には自殺とされていますが、真相は謎のままで、2017年には『殺されたゴッホ』というタイトルでゴッホの他殺説を謳う本(とういうか、小説)が出ました。

個人的にも、私はゴッホが自分で撃ったとは思えません。耳切事件などのこれまでの出来事を考えてみれば、ゴッホが拳銃自殺するなんて考えられそうなことではあります。でもゴッホが自傷を行う時は大抵、対象となる具体的な人物がいました。しかし、自殺の前に誰かのことで悩んでいたという情報、私が調べた限り見つかりません。 


自殺説を唱える人の中には、長年精神病を患った結果自殺したとか、弟のテオが結婚し、さらに子供が生まれたので負担になるまいと自殺したとか、様々な理由が挙げられています。


ゴッホの人生は彼の筆豆な性格のおかげで、生前の生活や思考の推察が容易な画家です。そんな画家が最後の最後でもたらした“死”というミステリー。


生前ほとんど評価されていなかったゴッホの作品は、死後に大きな評価を勝ち取りました。精神科医のポール・ガシェを描いた《医師ガシェの肖像》は、1990年にニューヨークで行われた競売で8250万ドルで落札(現在の価値で訳1億5300万ドル、約183億3000万円に相当)。2015年のサザビーズが行った《アリスカンの並木道》のオークションでは、6600万ドル(約79億円)で落札されました。


Vincent Van Gogh《Le docteur Paul Gachet 1890

©photo musée d'Orsay / rmn


牧師一家に生まれ、一度は伝道師としての道を志したゴッホ。独学で絵を習得した背景や、10年という短期間での画家生活、そして伝説的な事件の数々を引き立て役に、画家として彼の殉教は成功したのです。



 「伝道師」ではなく「職業画家」として生きることを選んだゴッホ年表 


Vincent van Gogh 《Cypresses》1889


1851年(0歳):3月30日にオランダ南部のフロート・ズンデルトにフィンセント・ファン・ゴッホ誕生

1868年(15歳):中等学校を中退し、フロート・ズンデルトに戻る

1868年(16歳):パリに本社をおく国際的な画商グーピル商会のハーグ支店に就職

1876年(23歳):3月にぐーピル商会を解雇される→4月にロンドン近郊の寄宿学校でフランス語とドイツ語の教師に→7月にロンドン近郊で教師、伝道見習いに→12月にエッテンの親元に戻る

1877年(24歳):神学の学校に入ろうとアムステルダムに移る

1878年(25歳):8〜12月ブリュッセルの伝道師養成学校に通うが、資格を得られず→12月にベルギー南部の地方炭鉱で臨時伝道師として伝道活動開始

1879年(26歳):1月に6か月間の伝道活動の許可を得る→7月に常識を超えた献身的な活動が問題視され、伝道活動の仮免許停止処分を受ける

1880年(27歳):7月からグーピル商会で働いていたテオの金銭的援助を受け始める→10月にブリュッセルの美術学校に入学。絵の修行を始める

1881年(28歳):従姉妹で子持ちの未亡人・ケーに求婚するも断られる→義理の従兄にあたるアントン・モーヴに絵の手ほどきを受ける

1885年(32歳):父のテオドロス・ファン・ゴッホが急逝

1886年(33歳):1月アントウェルペンの美術アカデミーに入学。2か月で退学→3月パリに移り、弟・テオの同居。フェルナン・コルモンの画塾に3か月ほど通う。画材商のタンギー爺さんと知り合う。ロートレックやピザロ、エミール・ベルナールなど、同時代の画家たちと交流する

1888年(35歳):都会的な生活に疲れ、2月にパリを去ってアルルに到着→10月にゴーギャンがアルル到着、「黄色い家」に入居→12月にゴーギャンとの口論の末、耳切事件発生。ゴッホはアルルの病院に入院。

1889年(36歳) :1月に退院し、制作を再開→4月に弟・テオが結婚→5月にサン=レミの療養院に入る

1890年(37歳) :1月に弟のテオ夫妻に息子が誕生→5月にパリ近郊のオヴェール=シュル=オワーズに到着。ポール=フェルディナン・ガシェ医師の診察を受ける

1890年(37歳) :7月27日、腹部を拳銃で撃たれているのが発見される→7月29日、フィンセント・ファン・ゴッホ没

1891年:1月25日、弟のテオ・ファン・ゴッホ没



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ゴッホのことをもっと知りたい方もどうぞ。

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